退屈のはじまり

更新ペースが明らかに落ちていることをはじめは後ろめたく感じてもいたのだが、慣れというものはほんとうに頼もしいもので、いつのまにか、そんな後ろめたさの海に、居心地のよい岩場を探し当て、鎮座している。時折、折り合いに鎮座する私の顔に怠惰の海水がかかったりもして、その存在を思い出したりするのだが、その存在を意識せざるをえない構図そのものにこたえを探り出そうとして、当面の問題であった怠惰そのものについての考察から、そのもっと下層にある怠惰のある風景への考察に切りかえる頼もしさ。一向に現状は改善を見せず、むしろ、取り返しのつかないところまで来てしまったのではないか、と焦るわけだが、その焦りすら慣れてしまい、いったい何をもって表現というのだろうか、などと、童貞をこじらした(伊集院光)事態に至っている今の私の頼もしさ。そんな頼もしさなどいらないのだ私は。そもそも今回のブログにしたって、なんらかの比喩、メタファーを用いればそれなりの思考をしているのではないだろうか、と見せかけているところがうそくさいのであり、言ってしまえば、そんな小手先の言語にこだわって、私はふざけているにすぎない。何も考えていない。考えていないからこそ、言葉あそびをして、ふらふらと思想といわれるものの周辺をうろついている。実にあさはか。更新のための更新にもう意味を見い出してないのに。


本を読んでいて、文字を追っているだけになっているときがある。
そういった感覚が日々の生活においてもずっと続いている。心ここにあらず。

「私が本や映画を観るのは、そういう尖った感覚を忘れちゃいけないと思うから」

といったような内容(酔っていたので、正確じゃないかもしれない)を以前友人が言っていて、それがまだずっとひっかかっている。
共感と戸惑い。たぶん尖った感覚を失いかけている自分に気づきはじめているのだ。

「何でもいいから、何かを嫌いになることが大事」

これは別の友人の言葉。(昔の記憶なので、正確じゃないかもしれない)
しかし、何か嫌いになるってことは、案外気力の要ることで、そんなに日々怒ってばかりいられないし、話し合えばわかりあえることは多い。
というわけで、そんなに問題の無い日々を生きています。
そんな記録。
実に退屈。