儀式のはじまり


パソコンの前に陣取り、
蘇民祭の由来や概要を調べてみたりと、
実に優雅な休日の午後を過ごす私。
そんなこんなネット界隈をウロチョロしている間に、
先日、私もお祭りに参加していたことを思い出したのでした。


金曜日の夜、いや、日付が変わって土曜日の午前0時にはじまる東京三大祭の一つ。
『山手終電まつり』


気を抜くとホームへはじかれてしまいそうなただならぬ緊張感の中、
老若男女がまんじりともせず待ち受ける渋谷駅に入ってくるシルバーの車両。
そして扉が開いたその瞬間、祭りははじまる。


隙間という隙間を目指して、我先にと人は争い、
乗り継ぎにつぐ乗り継ぎを目指して、山の如しと人は譲らず、
おしあいへしあいのもみくちゃで、胃が押し潰されそうになり、
『うがー』とかわけのわからない声をあげた時、
私はあの息苦しさの向こうに妙な一体感を感じたのです。


その時、思いました。
私があの時に乗っていたのは、移動するための山手線ではなく、
『山手終電まつり』のおみこしにちがいない。

黒石寺 蘇民祭 (こくせきじ そみんさい)
岩手県奥州市水沢区妙見山黒石寺で毎年旧正月7日夜から翌朝にかけて行われる、千年以上の歴史を誇る裸祭りである。災厄を払い、五穀豊穣を願う、裸参り(はだかまいり)に始まり、柴燈木登り(ひたきのぼり)、別当登り(べっとうのぼり)、鬼子登り(おにごのぼり)、蘇民袋争奪戦の五つの行事から成る。夜を徹して行われ、翌日未明からは男たちが東西に分かれ、裸で押し合いながら蘇民袋を奪い合う。これを最後につかんだ者の住む方角がその年、豊穰多福になると伝えられている。平成18年は、2月4日夜から、氷点下7度の寒さの中、男衆約100人が参加し、翌朝まで行われた。  

先ほどから蘇民祭の内容が全く頭に入ってこない。
それは、
『何故それが裸でなければならないのか?』
という問いに対する回答に、
おそらくたどり着いていないからなのですが、
神霊に奉仕して、霊を慰めたり、祈ったりする祭りの、
その神霊を意識するための装置として、
自分を極限に高めていくための裸であるとするのなら、
なるほど。
蘇民祭のことがなんとなくわかってくるような気がするのです。


わっしょいわっしょい。
それぞれの宴を乗せて、深夜の東京をぐるりとパレードする『山手終電まつり』。
わかっていてもわかっていなくても、
今日も私たちは宴の神様に感謝して、
おしあいへしあいのもみくちゃになる儀式を捧げるのである。


そんなことを考えていたら、終電の大混雑をゆるせるような気がするのでした。
わっしょい。