見えてくるもののはじまり

前の席の中学生らしきカップルがケラケラと笑っていた。その屈託のない笑い。きっと心の底から笑っていたのだろう。そう思いたい。中学生の時分から、感情表現をパフォーマンスに変えてほしくはないし。

昨日映画を三本観てきた。
「300」「大日本人」夕飯を挟んで「舞妓Haaaan!!!」。



大日本人」を見終わったとき、件の中学生カップルは居た。脱臼しちゃうじゃないかと思うくらい、女の子はあらん限りの力で、彼の肩を叩き、笑っていた。


好き好き大好き超愛してる。

好き好き大好き超愛してる。

僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。
(「好き好き大好き超愛してる」/舞城王太郎

ふと、舞城さんのテキストを思い出した。



いろんな人のさまざま考えを深く知りたいと願う。わたしもきっと人が好きだ。
ただ、世界中の人のことはよくわからないし、というか想像もつかないし、そしてきっと、「世界中の全ての人」となんの関係も持たずに、わたしは死んでいくのだろうけど、でもせめて、わたしの日常、まわりでめぐっている、わたしが気がつくところ、何の縁だかわからないけど、わたしの近くに来てくれた、まだみぬ哲学たちとうまくつきあっていきたい。さらにいうなら、その哲学の良し悪しがどうだとか、姿勢が本気とか冗談とか半笑いとか、もはやそんなのどうだってよくって。身勝手かもしれないけど、つまりそれは、わたしにとってどうなのか。それがいちばん大切なことで。だって関係ないことはとことん関係ないんだもの。でも、その哲学を知ることが出来るすべをわたしがもっているのなら、出来る限り、わたしは俯瞰し、吟味し、触れ合い、そしてその考えをどうにかして、わたしの生き生きとした血肉に変えたいと願う。そんな理由があって私の手の届くところに来てくれたのだと思いたい。そして、いまは関係ない人といつか関係をもったときに、なんか還元できるといいなと思う。だから、周りの人がなんか言ってくれていたら、それに素直に耳を傾けようと心がけたい。身近な人のお説教も、どっかのおっさんの戯言も、わたしの手が届くのであれば、わたしにとっての価値は等しい。
小説でも、音楽でも、踊りでも、居酒屋での与太話も。
そして映画を観にいくということも。
そんな願いを叶えようとする行為なんだきっと。



その中学生が羨ましかった。
願いだけじゃ届かないこともあることをまざまざとみせつけてくれた。



今日は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観てきた。
いつか見たときはボロボロ泣いたりしなかったのに、
恥ずかしくなるくらい、バカみたいに泣いてきた。


『もう見るべきものは何も無いの』
そう言ったセルマはあの時、何を見ていたのだろうか。