私のためのはじまり

作家の角田光代さんが今日の読売新聞夕刊でうまいことを言っていて、

青春、という言葉で私が思い浮かべるのは、安酒といかくんと吐瀉物のにおいである。甘えと依存と無知と、頓珍漢にせっぱ詰まった恋愛である。その言葉は私にとって、健やかでないもの、豊潤でないもの、美しくないもので満ちている。
(中略)
老いてもなお青春、という言葉には、ぞぞーっとする。六十年も七十年もがんばって、なぜ安酒といかくんに再度戻らねばならん。あそこからできるだけ遠く離れようと日々精進して生きているのに。成熟という言葉より、青春という言葉が魅力的だとは私にはどうしても思えない。


「青春」という言葉をそのまま「焦燥感」に置き換えたのが、今の私の気持ちである。

目的の事が、なかなか実現しないので、気があせること。(新明解 国語辞典第4版)

「焦燥」のこの前のめりな感じが、
実にしっくりときていた時期もあったのですが、
年をとり、いろいろとはじめてみるにあたって、
実現できることとできないことを、
わかりやすく目の前に提示されちゃったりすると、
気があせるというよりは、
むしろ、落ち着いてくる。
腑に落ちてくる。
なるほど。


そして、自分になら実現できそうなこと実行してみて、
実際にかたちになったりすると、
焦燥感を忘れそうになるほど、充実感があったりする。


いや。そもそも、はじめに描いていた目的とは、
果たして正解であったのだろうか。
そんなことも考えたりする。


あ。
そうか。
そんなことをずっとずっと悩んでいたりしていたのが、
青春というものなのか。


安酒といかくんで大いに語り、
吐瀉物にまみれて朝を迎える。
甘えと依存と無知を身に纏い、
いつだって頓珍漢でせっぱ詰まっていて、
ここではないどこかにいこうとする。


甘えと依存と無知が、
自分の中にあるのを知っているにもかかわらず、
見て見ぬふりをしていた。
私は怖がりだったのだと思う。


自分のできることがわかって、
そのことにおいてなら、
ちょっぴり自分に自信がもてるようになって、
はじめて、外に目を向けられるようになった気がします。


そんな外向的な姿勢にもたらされる、
今までの自分の中にはなかった、
わけのわからないもの。
そういうものと対峙しているほうが、
今はよっぽどドキドキする。
実現可能な企てが生まれそうな気がするのです。


待ち合わせ30分前に必ず集合場所に居る、その人の哲学。
満員電車でありえない音量で独り言を放つ、その人の生活。
それでもなお安酒といかくんで未来を語る、その人の姿勢。


憤りや謎を興味に変えて、
なかなか実現しないことなんてとっくに見切りをつけて、
おもろいことばかり貪っていくための焦燥感。

とはいえ、こういうことがあるから言葉はおもしろいのだと思う。書きあらわせばそれだけでしかない言葉が、人の体験や記憶によって、さまざまに意味を変え、色やにおいや肌触りをも、持ち得るのである。


私にとっての「焦燥感」も、きっとこんな感じである。