応援のはじまり

高校生になったときも、大学生になったときも、社会人になったときも、まったく気がつかなかったのだが、この時期、街を歩いていると、テレビを見ていると、この言葉によく出くわす。


「新生活応援」


なぜだかわからないが、私の知らないところで、新生活を応援している人が多数いるらしい。私は新生活でもなんでもない社会人4年目に突入した人ですが、愛に飢えている人でもありますので、
「新生活応援! 電化製品が三割引き!」
という文字が踊り狂うのを見ては、ありがたやありがたや、と拝み倒し、
「新生活応援! ライス無料!」
という文字がありったけの墨汁で書きなぐられているラーメン屋に入っては、こぼれ落ちる感激の涙とたちこめるスープの湯気とで、メガネがありえない湿度を保ち、
「新生活応援! 整体30分延長無料!」というティッシュを配られた日にいたっては、「新生活応援!」の柔軟すぎる一面に、私はめまいすらおぼえてしまうのである。


社会の半分はおそらく応援で出来ているに違いない。
きっとそうだ。
そしてそれは、とてもありがたいことだ。
新生活じゃなくても、春じゃなくても、もっともっと応援してほしい。
そんな社会が持続されるのであれば、私は私で、「応援してくれる社会」を応援したいと思う。
ああ、なんで高校生になったときも、大学生になったときも、社会人になったときも、私はこんなにも優しい社会に気がつかなかったのだろうか。
と、そんなわけで、過去の自分の分まで、応援を満喫しようと、「今日はどんな応援が待っているのかしらん」とごきげんに街に出てみたりする。よし、今日はここで応援されよう、と、パスタ屋さんの
「新生活応援! サラダおかわり自由!」
なるものに身を委ねて、ああ、やっぱ、応援ええわー。とついつい関西弁を口にしてしまう私でしたが、食事も終わり、会計する時に財布をあけてみて、思った。


諭吉が1人しかいない。


たしか、今週の頭、私の財布には、諭吉2人と、あと何人か他の人がいたはずなのに、週の終わり、私の目の前に広がっている財布の中に、諭吉は1人しかいない。動揺する私ではあったが、「新生活応援!サラダおかわり自由!」にひとまず気持ちよくお金を払い、その帰り道、私はその原因を考えてみた。


あ。


応援だ。
「新生活応援」だ。


私は「新生活応援」という名の付加価値に、阿呆みたいに感謝し、時に心洗われながら、お金を払っていたのです。なんだこのさわやかマーケティングは。すっかりやられてしまった爽快感は。
でも、「新生活応援」はいいものだと思っている。私がただただ浮かれて、バランスを見失って散財してしただけなので、応援してくれる社会とうまく付き合っていけるのであれば、その応援は悪いことではないと思う。どんな形にせよ、誰だかはわからないけど、応援しますよ、って言ってくれていることは、新しい生活をはじめる人にとって、ありがたいことではないのだろうかと思うのです。
そう考えると、私は、もっともっと、色々な方から応援されていたのではないだろうか。社会人4年目にしてはじめて気付く、社会からの「新生活応援」にすこし切ない。見えてなかっただけで、気がつかなかっただけで、新生活を迎える人はきっと、色々な方からの応援を受けている。私は、いったいどれだけの周りの人の応援を見過ごしてきたのだろうか。高校生のときも、大学生のときも、新社会人のときも、気がつかなかった。だって、ゆとりないんだもの。


というわけで、結局のところ、
街に見かけるテレビで見かける「新生活応援」は
いったい誰のためにあるのだろうか。


そんなことを考えて、
もっと切ない。