求道のはじまり

たとえば、『一日一善』などという言葉を掲げてみたりする。今日からのオレは違うよ。なんせ一日一善の男だから。お、あそこにゴミが落ちているぞ。拾ってゴミ箱に捨てて、よし一善。おや、あそこで貴婦人が困っておられる素振りをみせているよ。ああ、渋谷公会堂ですか。その道を左に曲がってあとは道なりですよよしニ善。と、まあ、決意を固めた日は十善ぐらい七割増で見積もってしまうものですが、実際には、一日中寝てました。っていう生産性ゼロの日もあれば、テレビとしか喋っていませんがなにか?といった侘しい日もあったりして、あっさりと一日一善が達成出来ない日があったりして。そして、一週間たったら、そんな目標すらすっかり忘れていたりする。
善いことする、そのこと自体はそんなにむずかしいことではないのだが、毎日毎日続けていくこと、そのことがむずかしいことだと、私は『一日一なにか』という言葉を前にして、考えるのである。何か成し遂げようとする決意は、意外に覚めやすかったりするという、なんとも切ない事実に、私は直面するのである。


今日、写真家を目指す女の子と話す機会があったのだが、その子の『一日一なにか』は『一日一枚』だった。そして、『一日一枚』は難しいです。と言っていて、なかなか興味深かった。私は写真を見るのは好きなのだが、撮ることには全く無知な人間なので、『一日一枚』などといえば、シャッターを切ればいいじゃないの?と思ってしまうのですが、その子は「だから、考えちゃうんです」と言っていた。昨日よりもよい写真を撮りたいと願う気持ちに縛られてしまう、とそんなことを言っていた。


一歩一歩前進するってことは、傍からとてもキラキラしているように見えたりするが、進んでいる当人は、息を殺しながら、今まで踏み入れたことない高みに進む一歩かもしれない。


『一日一時間』
これは、私の大学のころに先生が言っていた言葉で、一日一時間モノを書きなさい、とそういう意味だ。今はブログが浸透して見てくれる人がいるから、書くことへのモチベーションを維持する環境は良くなっていることは重々承知しているのだが、一日一時間は未だに実践出来ていない。酒を飲んでフラフラになる日もあるし、ジムに行ってクタクタになる日もある。気持ちが乗らない日もあれば、友達と遊んでいる方がずっと楽しいと思える日もある。


継続する日々は、いつしか日常になるのだろう。
覚悟する、とかそんな仰々しい構えを要するわけでもなく、歯を磨かない日がないように、そんなレベルで『一日一なにか』を継続したい。


でも、
『一日一冊』が可能なほど、読書出来る時間があるわけでもないし、
『一日一本』を達成できるほど、映画を見れる時間があるわけでもない。
『一日一時間』は、まだまだレベルが高すぎる。
『一日一サミット』は、死ぬ。



というわけで、
『一日一メール』
これならどうだろうか。
渾身の200文字。
用件もないのに、送りつけられる謎メール。
出来そうな予感もあるが、
同時に数少ない友人がどんどん減っていくようなそんな悪寒もあり、
危機的状況を察した私は『一日一メール』誰に送信しようかと、考える。
そして、思いつく名案。


私に送ろう。


天才すぎるよ。私。
と、自分の才に惚れ惚れした私は私に対して、今日のおもしろかったことなどをメールするのだが、
よくよく考えると、そんな私、不憫すぎる。
不憫すぎて、しまいには
「頑張れ!」
とか、私は私にエールを送って、ついに私の携帯電話の受信トレイが私からのメールで埋め尽くされていく。
そして、この状況から救ってほしい、助けてください。
と、
私は私に、
メールを送る。


いやだ。
私の理想とする受信トレイは、もっと素敵女子からのメールで埋め尽くされているはずなのだ。
むしろ、その理想受信トレイにたどりつくための『一日一なにか』でもあるわけなので、すっかり本末転倒なのである。
ヒゲメールなど、まったくいらないのだよ私は。
と、私は、自己完結な苦悩を展開する私を想像して、
『一日一なにか』への道に、
修行にも似たストイックさを、ついに見い出したのです。


「ついに」とか言い出してしまうあたり、かなり痛々しいのですが、ほんとうに当たり前のレベルまでなんらかの行為を日常に落とし込む、そのための『一日一なにか』なのだ、といろいろと妄想めぐらせて、再認識するに至った次第。
求道。
どうやら、というか、やはり、泣きそうになっても、不憫でも、後ろ指差されても、誰からもわかってもらえないなにかでも、その道を自分の足で一歩一歩すすむしかないようなのです。
どんな日だって、歯は磨く。




というか。
『一日一エントリー』
その言葉がすぐに出てこなかった自分が、
とっても、いや。