再読のはじまり

坂口安吾の『堕落論』を読み返している。

堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)

堕落論』は本当に本当に大好きな本で、今までにたぶん同じ文庫本を3冊以上買っているのですが、人に貸したり、無理矢理押し付けたりしているうちに手元から無くなってしまっていたのです。が、先日ブックオフに行った際、100円コーナーで叩き売られていた安吾を見かけ、つい手を伸ばし、再読する運びとなっているのです。
しかし。
これが。
俄然おもしろい。
うわ。なにこれ。こんな話だったかしらん。と思うほど新鮮に見えて、ページをめくる度にドキドキしている。
堕落論』を再読する前、私は小林秀雄を読んでいて、小林秀雄がすごい!と今更ながら、熱狂していたのです。
で、私はすっかり忘れていたのだが、坂口安吾は『堕落論』で小林秀雄論を展開していて、ものすごくビックリした!
全く忘れていた。そんな安吾、すっかり忘れていた。
堕落論』に収録されている「日本文化私観」や「堕落論」で見せる安吾の考察の深さにしみじみと頷き、「不良少年とキリスト」や「悪妻論」で見せる暴れん坊な安吾に手に汗にぎり、そして、「教祖の文学」で小林秀雄を見つめているその眼差しに同化したいと願っている。先日まで、小林秀雄がすごい!と感動していた私がめくる本の中、安吾小林秀雄の姿勢(文章力は思いっきり認めている。萌え)を痛烈に批判している。



再読する本にまた教えられるものがある。
同じ文章なのに受け取り方が変わってくる。
私が忘れっぽいこともあるとは思うのだが、『堕落論』のそんな強度に感動した。
私は10年後も『堕落論』を読んで、たぶん、きっとまた、新鮮な気持ちになれるのだと思う。


本の出会いは何も新しい本に限ったことではないのだ。
本棚に埋まっている高校生の時に読んでそのままの本、もしかしたら、そこにもまた新鮮な喜びがあるのかもしれない。
再読に耐えうる本に私はいくつ出会えるのだろうか。


とは言っても、当然、未読の本にもそんな喜びがあるわけで、私は、部屋に積んである未読の本たちから、一冊適当に抜き出して読み始めた。マンガだった。かけてある輪ゴムを丁寧に外し、まだ皺のついていない本屋の紙カバーの感触を手のひらに、新しい出会いを楽しみにしながら、そのマンガを読みはじめる。


ふむふむ。
おもしろい。
ん。
あれ。
これって。
たぶん。
どっかで読んだ。
うん。
読んだことあるよこれ。

団地ともお(1) ビッグコミックス

団地ともお(1) ビッグコミックス

友人に勧められて、マンガ喫茶で読んだのを、思い出した。
別の友人にも勧められて、本屋で買ったのも、思い出した。
どんだけ忘れっぽいのだ私。


しかし、
結果的に再読に耐えうる本を見つけることが出来て、嬉しい。
とか、
一応
前向きなこと、言っておく。


本質は、自宅にそのマンガがあるのにも関わらず、マンガ喫茶でそれをほくほく顔で読んでいた私。
あまりにも強烈な自分のマヌケさに、目をそむけてはいけないこと。


再読することは、決して退屈なことじゃない。
本を通じて、自分の過去に対峙する。
恥ずかしい自分に対峙する。
ただひたすらに、悶絶するぐらい恥ずかしい記憶、その場の雰囲気、空気がよみがえってくる。


そこまで含めての再読の価値じゃないかと、
私は私を肯定してあげたい。


そして『堕落論』は、こんな結論に至ってしまう私のためにあるのだと思う。