委ねるのはじまり

駅からの帰り道、もの凄い大雨に遭遇した。
バケツをひっくり返したような、とはこういうことをさすのだな。などと思いつつ、傘の向こう、大きな雨粒はアスファルトをはねていた。はねた雨が、スーツを濡らす。バケツがひっくり返されてから30秒も経っていないうちに、オレのズボンはすでにくるぶしまで濡れてしまっていた。雨宿りをするところもなく、雨は衰えを知らず、傘ではおさえられない勢いの雨がオレの肩まで濡らしはじめた。ふくらはぎのところが雨で濡れたスーツでピタピタしている。肩口に濡れたシャツが張り付いている。歩く不快感と化したオレはこう思った。



あ、もういいや。



早々と、雨から身を守ることに諦めを告げ、膝上ぐらいまでずぶ濡れになりながら、メガネに水を滴らせながら、水滴で前が見えなくなりながら、オレは家まで向かった。一直線に家に向かう様は男前そのものであったと思う。高架下で雨宿りをする者たちを横目に、豪雨という名の戦場に向かうオレの後ろ姿を見せたかった。そのぐらいの男前だったと思う。
でも、今日書きたいのは、そんなオレ様(様?)の溢れ出る男前の話ではなく、



早々に諦める。



ここについて考えていきたいと思うのだ。
最近、諦めるという行為がオレの中で、非常に高い評価を得ている。
諦めというと何かダウナーな感があるので、
身を委ねる。
委ねてやる。
そんなポジティブな解釈が、今、とてもイイ感じだ。



いきなりスケールが大きくなって恐縮だが、生きていると、自分の思い通りにいかないことが、思っていたよりも多いことに気付く。今日の豪雨もそうだし、仕事でいきなり新しい企画に強制的に参加させられ帰りが遅くなったりすることもそうだし、いい感じで盛り上がっている飲み会の時に友がこの世の終わりかのようなつまらないギャグを言ったりすることもそうなのだが、世の中にはなんとも予期せぬ不幸が多いのだ。



こんな不幸を目の当たりにして、我慢する人ってのが居るのです、世の中には。
すげーよ。オレ絶対無理。こういう選択肢をチョイス出来る人こそが大人代表だと思う。オレ、我慢できない。
沸点が相当低いと自覚する。諦めの沸点が。
早々に委ねてしまうんだ。
すぐに白旗をあげてしまうんだ。



雨が振りすぎて、面白い。
帰りが遅すぎて、面白い。
場がしらけ過ぎて、面白い。
あはは。あー、おもしれーな。悲惨過ぎて、おもしれーなー。
白旗をあげるだけじゃミジメなので、オレ、笑うことにした。



そしたら、とっても気が楽になった。



今日、AVコーナーを物色していたらアレがアレし始めて、まあぶっちゃけ、そこは予定調和なのだが、アレが収まらなくなって、オレは困ってしまった。
というわけで、アレがアレになったままの物色になったのだが、オレはその状況に身を委ねることにした。この処世術がこれからの新しいスタンダードだ。
つまり、
こんな現実逃避があったのですよ!
とオレ、
終始、
ニヤニヤ。
そして、
物色。