業界のはじまり

男前
男の中の男だと、振り返って見られるようなふうさい
(「新明解国語辞典第4版」)

何気なくスーパーで買い物をしていた。
サーモンとチーズとビールで、いい感じの夜を演出しようと企んできた。
そこにこれだ。
男前豆腐
確かに、男前。
確かに、オレは振り返ってその豆腐を見た。
そのふうさい。
もはや、宇宙の意志が働いているという理解でしか、納得できない。



男前だ。なんて、だれが判断を下すのだろう。
男の中の男だと、だれが判断を下すのだろう。
オレはこのブログで「男前計画」などといったプログラムを発動し、日夜、男前とはなんぞ、と研究し、実践している身であるが、それが果たしてモテに繋がっているかというと、残念ながら、微妙です、と嘆かざるをえない。
オレが思うに、「男前」だという判断は「我は男前である」と強く確信する、そんな黙した佇まいこそが男前なのでないかと思っていて、自分にモテる、それこそが「男前」であり、「男前」という言葉の存在意義だと思っていた。「男前」な人に「男前だね」と発言したした時点で、そこは非「男前」状況に陥るのであり、つまり、自分の中で黙して消化するためのそれであって、大衆の面前で「男前」と声高に叫ぶのは、どうやら「男前」ではない。といった認識で今に至る。
ところがどうだろうか。
この「男前豆腐」の、自らを「男前」といって憚らない佇まいは。
気が触れたとしか思えない。
キャッチコピーは「水もしたたるいいトーフ」である。
水以外にしたたる豆腐などみたくもないのに、当然の所作を、堂々と言い切る。



その堂々とした立ち振る舞い。
そこには、第三者の認定がある。その後押しで、あの豆腐は自らを「男前」だと言って、スーパーの陳列棚といった公の場に姿を現すのだ。
その厚顔無恥の影にみえるのは、業界。
業界の圧力が彼(豆腐)を動かしているとしか思えない。世の中に幾多もの業界と言われるものがある。その中に「男前業界」があるのが、そんあ「男前業界」が豆腐をそそのかし、「男前」を広めようとしているのではないのだろうか、とオレは思うのである。
「男前業界」の主な活動。それは、男前の素晴らしさを広報したり、もみあげの長さや、眉毛の太さなどを判定したり、「男前」という価値観を、あらゆるものにあてこみ、世に普及しようと努力している。
豆腐も例外ではない。
豆腐が男前であることで、世の中に何かいいことがあるかどうかはわからないが、なんせ、業界の決めることだ。一市民が到底理解出来ることではないことは、オレだって、社会人3年目をむかえるいい大人だ、これが、暗黙の了解だってことは、経験で理解する。



男前豆腐を冷奴にしてみた。
業界が満をじして送る「男前」な豆腐。
そこには、凡百の豆腐とは違った明確な「男前」とした何かが隠されているはずだ。業界という第三者が認める「男前」がその豆腐に詰まっているはずなのだ。いや、「男前」といった要素の集合体が、豆腐の姿を借りているはずなのだ。
オレは、男前豆腐を食すことで、自己満足で終わらない「男前」を見ようとした。


Plan-18「男前は気分だ」

男前豆腐」の冷奴。
それは、普通の冷奴であった。