緊張のはじまり

100人ぐらい居る部屋で10分位一人でスピーチしたりする仕事がたまにある。オレはその仕事を平気な顔でこなしてはいるものの、正直言って、無理しているのは明らか。
すげー緊張しているんですよオレ。足の裏ぐらいから、ざわざわ、が湧き出して、全身を包むような、とても嫌な感じの緊張。待ち受けているのがスピーチなもんだから、別に成し遂げたからといって、達成感があるわけでもないし。
人前で話すことすら満足に出来なかった学生時代に比べたら、良くなってはいるものの、それでも緊張してしまうのは、もはや、緊張はんとは一生のお付き合いを覚悟しなければならないのか。と思って、うんざり。



んで、今日もそんな仕事があって、当然、オレは緊張する。いくら場数を踏んでも、これだけは慣れない。
心地良い緊張、ってのは、その先に見える達成感があるわけで、オレの感じる緊張は、ソツのないスピーチの先に成り立つものだから、特に大した達成感もないわけで。
ただただ緊張するだけの、そんな不毛な緊張を、オレは今の仕事から強いられている。



百害あって一利なし。
過度な緊張は、この言葉に集約される。
それは、あまりにも正解過ぎて、哀しい。
でもやはり、緊張には、そんな着地点しかないのだろうか。



最近、皮膚科に行った。
首のところに、変な形の湿疹が出来ていて、これじゃあ、夏を満喫出来ません!と憤ってみたのだが、あっさりと先生は「ああ、これは慢性ですね」と言ってくれるので、オレは首の後ろに出来ているピップエレキバンのかぶれみたいな恥ずかしい形の赤い痕を、ギャグとして消化していこうと即座に切り替えたのだが、それと同等のことが、緊張に求められているような気がしてならない。つまり、ベクトルの量や質や方向はどう頑張ったって変えられないものがあるということを認識し、その着地点に存在する意味をすり替えよう行為が今、必要とされている思うのだ。



緊張の場合の着地点の変更。
その気付きは、まさに偶然であった。
今日のオレの緊張。
なぜか。
へその下、あたりで収まっている。
アレの周辺あたりが緊張でポカポカとしたとてもいい感じになっているのである。
アレだけが怒張するのでなく、
今日の緊張はアレの周辺をざわざわと痺れさせてくれた。



緊張してしまうのは、もう、あきらめようじゃないか。
どうしたって、人は緊張してしまう。
だから、自分の体の中で起こる緊張を最大限、誤解するといった方向で。
それこそが、マイナスベクトルを多分に含んだ緊張というやつとの、正しい付き合い方だと思うのだ。



発生した緊張をへその下でおさえてみる。
すると、どうだろう。
妙に緊張がいとおしくなってくるから不思議だ。



どうしようもなく変えがたい現実があったとしても、それは決して「=○○」でなく、「○○」は着地すべき一つの着地点でしかないといった認識をすこしでももっているといい。原理主義なんて、オレはギャグでしかないと思うのだ。面白くないギャグ。「○○」といった印象にこだわっていると、もっと面白い「△△」や「□□」といった印象を逃しかねないから、そんな生き方は勿体無いと思うのだ。



諦めろ、なんて言葉が今はポジティブにとられるケースがあったりするが、
その諦めが前進につながるのは、やっぱり、きっとこういうプロセス踏まえてのことなのだ。と今日は特に思った。
アレ周辺が賑やかになって、HAPPYです。
なんて、まるでバカ丸出しの発言ですが、
もはやオレは、どうしても出てきてしまう緊張とこんな付き合い方しか出来ません。