伝えるのはじまり

水戸駅で立ち尽くしていた。
あの史上最悪の脱線事故の裏で、今日、常磐線脱線事故を起こし13時頃から運休していたのです。
現在19時、復旧は21時までかかるという。
オレは、水戸駅の改札で立ち尽くしていた。



会社に連絡する。
「大変だねー」
え?それだけ?
めちゃくちゃ呑気じゃないですか。
「色々乗り継いで、新幹線で帰ってもいいですか?」とオレ。
「いや、在来線で帰ってきて」と上司。
え?なにそれ?
行き場の無いイラつきがこみ上げてきて、悪いが、その上司に一生分の恨みを注ぎこんでやりたいと思った。



電話を切ったあと、思った。
現場の空気感がどうしても伝わらない。
もしくは、それを伝える言葉を知らない。
それが、とてももどかしい、と思った。
そして、同時に映像の力強さを再確認した。
編集無き剥き出しの映像は、相手の感情の入る余地がある。



言葉は相手に、こう思ってほしい、とついつい余計なものを付け足してしまう。相手の想像を誘導してしまう。でも、誘導されたものって、本気にはなれなかったりするものなのだ。
自分のスケールに納まってしまうものなら、むしろ、ある程度の虚飾は必要だと思う。
しかし、あまりにも悲惨なときの言葉の虚飾は、その出来事を自分のスケールに縮小してしまう作業なのかもしれないと思った。オレのパッケージ技術では、この惨事を伝えることはできなった。



まあ、でも、なんとか帰ってこれました。
相手の余地を考慮するとはこういうことなのでしょう。
ホント?
ホントにいいのかこれで。