読めないのはじまり

色々な方から、その人それぞれのオススメの本をお借りしている。生活の延長だけでは、これからもおそらく関わることのないであろうカテゴリーに、オレは皆さんのご厚意で、触れることが出来る。とてもありがたいことです。
ただ、残念なことに、読書する時間は限られている。休みの日に一気に読む!などと考えていると、「読書!」というポジティブな気持ちでありながら、読書そのものの持つ閉ざされた姿勢の矛盾に必ず遭遇し、オレはその両者の気持ちを満たすべく、つい、ふらふらと「まずは散歩!その後、読書!」などと家を出、「今日は、なんと読書日和なのであろうか!」と青空を仰ぎ、射し込む日差しに目を細め、そんなことにのんきに浸っている間に、読書にあてる時間はどんどん削られ、読書にあてるエネルギーもまたどんどん削られていくので、読書をする時間はよりいっそう削られていく、そんな見事に阿呆なスパイラルを描いているのである。
そして、反省まみれの帰路に着く。そんな帰路の途中、また本屋を見つけてはふらふらと入り、ついつい、新しい本を買ってしまうのである。
スパイラルは新しい負の層を築いていく。



いつも拝読している「空中キャンプ」さんの「見る/見ない」の話(id:zoot32:20050407)はものすごく参考になった。

彼らはみんなこう話す。「いろんな音楽が聴きたい。もちろん映画も外せないし、小説やマンガも読みたい。ライブや野外フェスにも行きたいし、DJも聴きたい。展覧会やエキシビジョンも見たい。ファッションや家具もおもしろい。とにかく全部見たい」。でも、それらを全部網羅するって絶対ムリですよ。

20代の子は欲張って全部見ようとするから、消化しきれずに、単に情報の羅列になってしまう。

なるほど。と思った。
オレは映画と本に興味がある。でも、その二つに絞っていても、そのジャンルの中でですら、興味のあるものが多すぎて、いっぱいいっぱいになってしまう。

やっぱり「何を見ないか」が大事だ。情報を選別して、見るべきものだけを集中して見た方が楽しい。

「何を見ないか」を判断するには、オレはそのジャンルのことを知らなさ過ぎて、ちと恐い。本屋に行くといつも新しい発見をする。人と話していても、新しいジャンルへの興味は尽きない。見ないと判断するのには、勇気がいる。そして、見ないと判断したら、そのジャンル以外の情報をシャットダウン出来たらいいなと思う。日々の生活はそれだけで学ぶことが多すぎる。



昨日、Iと飲んでいて、歴史の話になった。Iの歴史の話には、仏教とか座禅とかが、彼の視点で、彼の言葉で、彼に吸収されていて、オレはゲラゲラ笑った。歴史上の人物である親鸞をあれほどポップにマブダチみたいに語れる奴はそうそう居ない。



通勤電車の中でしか約束された時間がないと嘆くのなら、何をどんな角度で学びたいのかといったそういうこと、やっぱり、ちゃんと考えておかなければならないなと思う。する時間がないことが苦痛になってきている自分が居るのなら、それは多分、娯楽以上の意味を、読書や映画に求めている。ただ、オレがそのことに無自覚なだけだ。



だから、オレは「マンガ日本の歴史」が読まなければならない。とにかく、オレは明日の日曜日、区の図書館で、近所のちびっこたちにもみくちゃにされながら、「マンガ日本の歴史」を読まなければならない。
何に対してオレはそう言われたのか思い出せないが、「歴史だよ!」と言ったIの力強さが忘れられない。歴史だ。なんだかわからんが、歴史にオレの求めるものがあるような気がしてならない。



そんな興味でまた今日も、オレの文化は脱線です。