手書きのはじまり

ある方からプレゼントを貰ったのだが、それに手紙が添えられていた。
急いでいたらしくて、殴り書きのような文面になっていたのだが、
なんだか嬉しかった。
プレゼントを貰ったことは勿論嬉しいのだが、
わずかな時間を割いて手紙を書いてくれたその方を想像すると、
その状況ほうがはるかに嬉しい。



もはやオレは、キーボードで打った方が、喋るよりも早かったりする。
手書きの良さみたいなことは、なんかわかったようなわからないような感じで、実際のオレはパソコンで文章を作っている。便利さにはやっぱりかなわないとも思う。コミュニケーションのツールが多岐に渡っている中で、手書きの不確かな優位性に賭けるほど、ゆとりがあるわけではない。ブログだって、文章を誰しもに公開できる場があったとしても、それに手書きの要素が必須であったとしたら、こんなに更新出来てないと思うのだ。気になる言い回しも、コンピューター上であれば、すぐに修正出来る。



手書きは確かに古臭い。用件を伝えるのなら、手書きはなんてナンセンスなんだろうと思う。間違えたら消しゴムが必要だ。書いたのがボールペンなら、修正液が必要だったり新しい紙が必要だ。経済的にも非常に良くない。
でも、その大人は手書きで書いてきた。そして、オレはその手書きを嬉しく思っている。



手書きの良さを改めて知る。
なんだか日曜夕方の大人の遊び方番組みたいなコピーになってしまった。
現在のコミュニケーションツールにおける手書きの置かれた状況を考えると、
時間とか費用とかのあらゆる無駄の存在が周知の事実であるのにもかかわらず、そんな面倒達を乗り越え、手書きには
「一筆入魂」
みたいな付加価値が付随するからなのだろう。
男前はそんな付加価値を知っている。
事実、貰ったオレはそんな付加価値を嬉しく思っているし。



冷静に分析すると喜びが台無しなのだが、オレは台無しにしてでも、その大人の男前コミュニケーションを学びたいと思うのだ。
折角なので、台無しついでにもっと深く推察してみた。



Plan-16「男前は、常に便箋を持ち歩いている」



ここに行き着いた。殴り書きであったのも、常に便箋を持ち歩いていたからなせる業なのであると。
なんだか中学生女子が授業中にものすごくミクロに折りたたんだ手紙をまわしていたのを思い出した。あれってものすごく中学生女子っぽいアイテムだと思う。中学生女子は自分が中学生女子であるべく、いつでも手紙を小さく出来るよう、カバンの中にディズニーの便箋セットが入っている。はずだ。
それと同じ論法で、男前は男前で、いつでもどこでも、ここぞいう時に手書きを繰り出せるようにすべく、カバンに便箋を忍ばせているに違いない。
忙しさに翻弄されながら、逃げるようにして入った喫茶店で、それでも書く手書きがとても男前だ。そして、喫茶店を出たその足で、書きたてほやほやの手紙を誰かに渡す。
前の晩に準備万端で書いた手紙なんかじゃダメだ。考えてみてほしい。朝起きて、前の晩一生懸命書いた手紙の存在に気付く。とりあえず読んでみる。Yシャツにトランクスに靴下というスタイルで読んでみたりして。



そして、オレはその手紙を捨てるだろう。
一生懸命であることで、願わずして、この世の恥という恥を身にまとってしまった呪いの手紙。
そんな手紙、捨てたくなるに決まっている。