ラリーのはじまり

オレは立て続けに二人の先輩と飲む機会に恵まれた。6時から千葉で。そして、10時から地元で。飲みと飲みでダブル飲みだった。いっけんハードではあるのだが、全然苦じゃなかった。学ぶべき大人がオレの周りにはたくさん居る。それに気付きはじめてから、積極的にオレは飲みに足を運ぶようになった。
とは言いつつも、そんな彼らの本質で物事を議論しようとする姿勢は、時にうざったく思う。オレも思わず「先輩、自分は正直、その発言暑苦しいと思います」とオレの本音をぶちまけてしまう時だってある。でも、彼らは決してオレの発言で、その姿勢を変えたりしない。照れ笑いはするものの、決して変えない。自分の姿勢に自信を持って発言する。でも、奢っているわけではないのだ。謙虚に学んでいたりもする。オレの周りの尊敬出来る大人は、謙虚に学ぶことの大切さも訴える。
「一人一人が一人一人の人生の応援団長だ!」
よくわからんがこんな発言もうっかりこぼれてしまいそうな、オレの周りの素敵な大人たちはいつだってどんな角度からだって、本質を語ろうとする。そして、こんな大人たちと飲んでいると、オレは感動して涙を流しそうになる瞬間がある。正直な話、最近、飲み会で涙をこらえることが多くなった。すげー充実してて泣きそうになることがあるのです。でも、ああ、安っぽい場面にうっかりと迷い込んでしまったなぁと冷めた目でオレを見ているオレと、すっかりポロシャツの襟を立て、半ズボンで泥まみれで、「もう一本!」と叫んでいる松岡修造なオレが居て、涙腺の瀬戸際でオレは踏ん張っている。泣きそうになった時、涙を流すことに戸惑いを感じるのなら、それはただ泣いてみたいという興味だけなんだと自分を戒める。惜しみなく語ってくれる本質に、聞き手のオレもそのレベルで応えたいのだ、まあ、ちょっと待ってくださいよ、と誤魔化す。脳内修造が短パンじゃなかったら、オレは泣いてしまう側にあっさりと転んでしまっていただろう。
多分上手く泣けないだけなのだ。でも、それは今度にとっておこう。ぼろぼろと涙を流してしまうカッコ良過ぎて鳥肌がとまらない大人達の話を、次会うときも、楽しみにして。



偶然にも、二人とも話のテーマは「コミュニケーション」だった。大人は大人で、コミュニケーションで考えている。ちょっと安心した。オレの今のうだうだした感じが、オレは自分の幼さから来ていると思っていたから。そしてオレは、安心したのもつかの間、コミュニケーションへの舐めた考えは止めよう。と思った。方法論なんて下らないじゃないか。オレの周りの素敵な大人はキラキラと「コミュニケーションは難しい」と笑う。模索を楽しんでいる。素敵大人になるべく、オレも「諦める」なんて斜に構えてないで、襟を正そうと思った。



襟という単語で、オレの脳内修造があらわれた。
「いいよ!いいよ!頑張ってるね!」
そういうことじゃなくて……。



……いや、修造いいかも。正直に「応援してます」とか「会いたいです」とか「寂しいです」とか言うことって、コミュニケーションの大事なことなんじゃないだろうか。実際は自分の気持ちを素直に表現できないことがよくある。勝手に他人の都合とか考えとかを想像して、正直にそんな気持ちを言えなかったすることが多い。オレは「相手のことを考える」という理由で、コミュニケーションを自ら断絶しているのかもしれない。わがままになることと主張することは紙一重だ。そして、その判断を相手に委ねなければならない。
素敵大人は言う。
「対話が大事だと思う」
そんな小難しい面倒臭いステップも、一人で考えるからそう思うだけで、二人で対話していけばなんとかなると素敵大人は言う。よりよいコミュニケーションを求めて、コミュニケーションする。
なんだかとても面白くなりそうな構造である。



脳内修造が言う。
「そう!それだよ!それ!」
脳内修造は待っている。
自分を放って待っている。
オレのリターンを待っている。
いつ返ってくるかわからないボールを待っている。
辛抱し、待つこと。
コミュニケーションはここに尽きるかもしれない。と思った。
対話する二人のそれぞれの意志で、待つことに信念を持てたら、時間が掛かるかもしれないけど、ラリーはきっと続いていく。
ネットの向こうは見えないけど、恐る恐る打つことを続けていったら、なんとなく相手が何処に居て、どんなボールを求めているのかわかってくる。
「そう!それだよ!それ!」
暗闇の向こうで絶叫する脳内修造の声にオレは励まされる。
脳内修造はいつもネットの向こうで待っている。
オレは、その姿にコミュニケーションを感じたのだ。



素敵大人と脳内修造がだぶった。
素敵大人のお二方にとって、3時間ずつ語って頂いたのにも関わらず、この結論は本当に不本意でしょうが、
すいません。だぶりました。