vs出張のはじまり

昨日の朝一から、仕事で信州の方に来ています。
無事仕事を終えて、駅の近くのビジネスホテルにチェックインし、部屋に居てもつまらないので、んじゃあ、遊びにいくか、と意気込んで外に出ては見たものの、なにせ、初めての地、土地勘がまるでないため、探索してみようと思い立ったわけですが、街頭もまばら、ネオンというネオンが見当たらない、とぼとぼと歩いて、やっと明るい光が見えたと思ったら、それはコンビニだったりして、せっかくなんでと入ってみるも、特にいつものように何もすることがなくて、ぱらぱらと雑誌をめくり、缶コーヒーの一本でも買って店を出て、店外でタバコを吸う。ふう、落ち着く。と、うっかり落ち着いていたわけですが、せっかくの出張の夜に何をコンビニでまったりしておるのか私は、と、自分に憤慨し、私は店内に戻り、マップルを開き面白そうな場所を探すのですが、地図の尺度がでかすぎて、まったく意味がない。山が親指ぐらいの大きさしかない。そんな尺度で何を探せというのか。とそんなこんなしているうちに腹が減ってきて、コンビニで何か買って、すんなりホテルに帰ればよいものを、その土地のものを食べずして何が出張か、と意気込んだ私は、また歩き出し、歩き出し、歩き出し、30分ぐらいウロウロしていたのですが、まわりは一向に真っ暗で、車に惹かれそうになったりもしている。
ここまできたら、もう引き返せない。
ここまでもそこまでも、ないのですが、よくわからない決意だけが私をうろつかせる。んで、結局、たどり着いたのは、駅前の定食屋さんで、煮付け定食を食べながら、私は気づいた。


一人で遊ぶ。
それを面白くするには、条件がある。


友達とも遊ぼうと思えば遊べるのだが。


たぶん、そんな条件が「一人で遊ぶ」ことの面白さの裏に潜んでいるのではないだろうか。


一人で遊ばざるを得ない、そんな緊迫した状況で遊ぶことの何と窮屈なことか。
一人で遊ぶということは、もっと豪奢でゆとりがなくてはならない。
ゲーム10時間してました。
一日中某掲示板見てました。
発泡酒を飲み比べてみました。
これらのなんと無駄なことか。友達と遊べ。会話をしろ。
しかし、同時にその不毛さがなんともいとおしくも感じる。私はたぶん、そんな無駄や不毛を通して、時間を弄んでいる。時間を掌で転がしているかのような錯覚に、私は一人で遊んでいたいと思うのだろう。


今日の昼ごろ、ちょうど仕事が一段落したので、せっかくなので善光寺に寄ってみた。そして10分後、私は善光寺から少し離れた公園でお昼を食べていた。善光寺を眺めていても、心の琴線がピクリともしないのだ。観光に来ているわけではないので、期待もなにもあったものではないのだが、それにしても、こんなにもピクリともしないと、それはそれでなにかさびしい感じだったのですが、今こうして文章をつづっていると、なんとなくわかってくる。
つまり私は、一人で遊ぼう、楽しもう、としている時は、無駄なこと、不毛なことを好むのだ。


善光寺の喧騒から外れた公園で食べる、運転に疲れたからという理由で立ち寄ったコンビニの、その土地のものとはまったく関係のない冷やし中華と鮭おにぎり。
贅沢なのか、貧相なのか、たぶん貧相なんだけど、そんな無駄が、何にも期待せず、誰からもとがめられず、マイペースで心地よい。


なので、せっかくの知らない土地で向かえる夜にもかかわらず、今こうしてどこにでもあるマンガ喫茶で、どこにでもあるパソコンで文章をつづり、ブログを更新してしまうあたり、私の「一人で遊ぶ」哲学はいよいよ本物の領域に踏み込んだのだな、と思った次第にございます。