拗ねるのはじまり

ものすごい拗ねている人がいた。
「私は関係ありませんから、みなさんでやればいいんじゃないですか?」
誘ってほしい空気があたりを埋め尽くし、苦しくなった。


大人なのに、拗ねる人が居る。そのことにちょっと驚いた。大人はもっと大人然とした対処でもって、誘ってくれったっていいじゃないのー、なんて、小気味良いテンポで言ってくれるとばかり思っていたから、その人が余計にカッコ悪く見えて、余計に誘われないのではないだろうか、と思った。
拗ねるのは子どもの特権だとばかり思っていた。感情をセーブできないし、現実的な対策も練れない子どもの残された策で拗ねるのなら、なんだか可愛げがあってよろしい。ただ、私なんかよりももっともっと年配の方が拗ねたりしているのをみても、全然可愛くないわけで。なにがしたいのだ君は。なにをしてほしいのだ君は。と、小一時間は問い詰め、ブンブン振り回してみたくなる。えーい。
と、ブンブン振り回していた私であるのですが、ふと、なにかが頭に引っかかった。なにが引っかかっていたのか。よくよく考えてみると、拗ねる、という行為に引っかかっていて、私は、拗ねるという行為を、正直、羨ましいと思っているのであった。


年をとる、ということは、何か知るということで、それは新しい方法かもしれないし、それは感情のコントロールかもしれない。とにかく、年をとるということは、成長するということで、従来自分にあったものを不要なものだと決め、新しい何かに変えていくものだと思っている。


でも、その新しい何かっていうのは、処世術に近いものがある。残念なことなんだけど。折角、年を重ねるのに処世術って。
でも、没頭出来るほど、時間が与えられているわけではないから、色々なものに流用できるような、新しい方法、感情のコントロールを知っていく。
生活しながら、身に付けていく。
日常は、物事の本質まで辿り着けないほど、めまぐるしい。
新たな物事は舞い降りてくる。続々と。
視野が広くなる。色々なモノを見たくなる。だから、物事がおぼろげにみえてくる。おぼろげにしか見えなくなる。そして、次第に、どうでもよくなってくる。いろんなことに。



方向性はともかくとして、拗ねることが出来る感情の研ぎ澄まし方。何かを嫌いになることの研ぎ澄まし方。
年をとっても忘れてはいけないことは、なにかに対しての集中力で、ここ一番、いろんなことを考慮してみた結果、その選択に決めたのであれば、その行動に対して、感情を研ぎ澄ませねばならない。半笑いで済ましてはいけない。
まあ、別に、いけないわけではないのですが、出来れば私はそういう大人になりたいのです。たいせつな人にわかってもらえない中途半端な物分りを私はブンブン振り回して投げ飛ばしたいのです。
感情を研ぎ澄ましていくことだけは、社会性とかとは別の方向で、成長していきたいのです。


私はその拗ねている人を見て、笑った。
研ぎ澄ますこと。
それは、痛快なことだ、きっと。