暴力のはじまり

私たちは、一日いくつ理不尽な暴力をやりすごさなければいけないのだろうか。
例えば電車の中。どうだろうか。朝の通勤ラッシュ。殺伐とした車内。無理矢理狭い座席に尻を押し込めるおばさん。そんな、すぐ連想できる気さくな暴力。そして、そのおばさんの隣に明らかにその筋のお方。明らかに気分を害していらっしゃる。そして、そのお方の前に立つ私。そんな緊迫した暴力。
例えば街道沿いの夜中のコンビニ。その文字を眺めているだけで、バイクをふかす音が聞こえてこないだろうか。太陽が出ていないのにサングラス。リアルチャンプロードの世界。タバコを買いに行くだけなのに、2諭吉ぐらい問答無用でむしりとられてしまいそうな、そんな圧倒的な暴力。
例えば昼下がりのオフィス。ちょっと仕事が立て込んでいて昼飯を食べる時間を逃してしまったときに、満を持して現れる飛び込みの営業。それがちょっといい感じの提案だったりして、話を聞いていると、すっかり3時になってしまい、「1日4食でごあす」と食いしん坊のおやつみたいな扱いを受ける惨めな暴力。
嗚呼、バイオレンス。そんなバイオレンスにまみれながらも、今日もなんとか生き延びた私。つかの間の安息。だが、私は明日からまた戦場に向かわければいけないのだ。息も絶え絶え、私はTVをつける。


しかし。こんなところにも暴力は転がっている。



例えば部屋の中。ゲームでもやろうかなー、と何気なく起動したプレステに入っていたのは、ゲームではなくアレ。最近私がはまっているのはジョッキーゲームで、いろいろな馬に乗ってレースに勝利していく、いわゆる惰性でずっとやれちゃう罪作りなゲームなのだが、その日のアレ。つまり夏目ナナなのだが、なんで夏目が、夏目ではG1は勝てないですよ、とついついうっかりで気がついたら午前2時。次の日は6時起きなくちゃならなくて、でも、男として夏目ナナをほおっておくわけにもいかないし。とまあそんなこんなの小悪魔みたいな暴力。


暴力といわれるものは世の中に掃いて捨てるほど転がっている。そして、それはあまりにもたくさん転がっているので、避けようと思っていても、それは多分無理なことなんだ。そう思って私は早々とあきらめることにした。


先日、こんなことがあった。
友人の舞台を観に新宿に出かけた。
ちょっと早めに家を出て、着いたのが昼前。
友人の舞台の開演が14時なので、まだ時間がある。
おなかのすいた私は新宿南口のとある中華料理屋さんに入った。


例えば中華料理屋。ランチ時の混雑した店内。中華鍋のかえす音。もの凄い勢いで罵倒しあう中国人オーナーと雇われ店長。私という客なんて居ないかのように、こだまする中国語らしきもの。たぶん、「お前に喰わせるタンメンはねえ!」とかなんとか言っているのだろう。そして出てくる、900円でお釣りがくるチンジャオロースー定食アイスコーヒーつき。
でも、
そのご飯。
そのおかず。
日本昔話盛り。


新宿で出会った、こんなにも優しい暴力。


私たちは多分、暴力から逃れることはできない。
逃げれば逃げるほど、たぶん、また別の暴力に勢いよくぶつかっていってしまうのだ。
善意からくる暴力ほど恐ろしいものはない。
だから、私はその中華料理屋で出会った暴力を受け入れることにした。
というか、多分残したら、なんかそれこそこっぴどい仕打ちを受けるのでないか、私がチンジャオロースーにされてしまうのではないか、とオーナーと店長のものすごい罵倒のし合いからそんな想像してしまって、必死に食べました。


おいしかった。
愛と暴力。
そんな二つの歩み寄りをリアルに感じた新宿南口、中華料理屋の店内。
暴力がすべて悪いわけじゃないんだ。
そんな発見で、私は嬉しくなった。


でも、
愛は胃がもたれたりしないので、
愛と暴力の歩み寄りなんて多分勘違いなんだ、
と店を出てから10分ぐらいして思いました。