衝動のはじまり

衝動。


この言葉の響きに何度騙されてきただろうか。なにやら、純粋で真剣で真っ当で誠実な印象のこの言葉。でも、それはあくまで、印象に過ぎないのだ。それを自覚した。


例えばだ、
「オレはムカついて壁を殴った」
という出来事があったとする。
うーん。ものにあたるのはよくないですね。と、まあいいや、こんな出来事があったとする。そして、この文章に「衝動」をまぶすとこうなる。

「オレは衝動的に、壁を殴ってしまったんだよ。頭が真っ白で。気がついたら、壁に穴が空いてたんだ」


おいおい。
壁に穴を空けといて、なんですか、この清々しさは。
空いてたんだ。じゃない。お前が空けたんだ。お前が。早く目を覚ましてほしい。こんなヤツ、周りが迷惑するだけだ。


衝動から来る行動や思いなんて、幼稚で、単純で、視野が狭くて、何一つ良いことがないと思うのだが、こんな感じでイメージ上で刷りかえられてしまう。衝動から来る行動は確かに絵になる。物語の葛藤はだいたいが衝動が解決したりして。でも、オレは物語の世界に生きているわけはないので、物語では省略されるべき単調な生活も背負っていかなけばならなくて。衝動に委ねてとった行動は、省略でうやむやに出来るわけもなく、なんのうねりのないままに、日々その衝動がもたらした結果と付き合っていかねばならないのだ。穴の空いた壁は、ほおっておけばいつの間にか直るわけでもなく、現実は、何故壁に穴なんてあけちまったんだ!と悩みを抱えていかねばならないのだ。衝動が美しいだなんて、オレは認めない。認めないよ。


でも、そう理解していても、日々生活していると、予期せぬ事態に遭遇したりして、ふと喜怒哀楽の衝動がこみ上げるときがある。そんな時に、オレは衝動を認めないよ、などと思えればよいのだが、
衝動がこみ上げてくるオレも、オレの一部分なわけで、それはそれで正しいのだ。
と、自分の阿呆さを説き伏せようとしている自分がその時には居たりもして、なかなか油断ならない。で、後々冷静になって、予期せぬ事態に対しての考えてみると、なんか、衝動に身を任せてもよかったのかなー、と思ったりもして、もうなにがなんだか。


世の中に白と黒しか答えがないのなら、なにがなんだが、にはならないはず。
オレが思っている以上に、世の中には多様なグレーがある。先の話で例えるなら、壁に穴をあけざるをえない立ち位置もあるってこと。
知らなかったグレーを知ったとき、オレは、衝動と熟考の狭間で葛藤する。どう対処したらいいのか。ってか、対処以前に、そのグレーに反応すべきなんだろうか? 余計なお世話? そもそも、白とか黒とかグレーとかって判断は相対的なものだから、答えなんてないんじゃないか? などと葛藤して、ぐるぐると衝動と熟考を行ったり来たりして、その行為に飽きてきたころに、なんだかいい感じの着地点が見えてきたりする。やっとその時、ああ、オレも新しいグレーを理解したのかな、と思える。


なんだか、抽象的な話になってしまいました。
まあ、いいや。適当に誤読してください。


結局のところ、
『どっかで聞いたことのあるような正論ばっか振りかざしてっと、ブッコロスケナリヨ☆』
と言いたかったのだ。
衝動+正論。
一見、最強の組み合わせに、ちょっとでも酔って、深刻ぶって切実ぶってしまったオレに、オレは『ブッコロスケナリヨ☆』と言いたいのですよ。