ふんどしのはじまり

みなさんはふんどしをしめたことがあるだろうか。多分、この時点で大多数のみなさんが「NO」と答えるはずであるが、まあ、よしんば、しめたことがある人がいるとしよう。しかし、見ず知らずの他人のふんどしになるとどうだろうか。ふんどしだけでもレアであるのに、あかの他人のふんどしである。これは流石にないであろう。いや、それが例え見ず知らずの他人ではなく、唯一無二の親友であったとしても、ないであろう。いや、むしろ、それはない。それこそない。
たとえば、君は今日、テストだったとする。期末テストだ。今日のテストさえ終われば、後は夏休み前の試験休みが待っている。試験を受けるにあたり、必要なのはふんどし。科目はよくわからないが、毎年生徒の前歯を5、6本折ることで有名な(非公開)鬼崎先生の期末テストはふんどしが必要とのことだ。しかし、君はふんどしをうっかりわすれてしまった。
あっ!ふんどしがない!
君はカバンをあけて気付くだろう。ふんどしがないことを。カバンの中に入っているのは、昨日の夜慌ててつめこんだ、近所の工務店の名前が入ったタオルである。君は慌てる。ふんどしをオレは何処へやってしまったのだろう。ハンガーにかけっぱなしだったか。いや、風呂場のたたんであるタオルの中に、妙に肌触りの良い木綿が混じっていたアレがふんどしか。よくよく思い出してみると、カーテンの代用として使われていたアレがふんどしだったような気がしなくもない。とにもかくにも、君はふんどしをわすれてしまい、テストの後に遊びに行く予定だったハイな気分もすっかりとどっかへ吹っ飛んでしまい、君は朝の教室で一人呆然と佇むのだ。ふんどしがないと試験が受けられない。鬼崎先生に前歯を何本折られるのだろか。いや、それ以前に試験が受けられないと留年が確定する。じゃあ、ふんどしを取りに戻ってみよう。それだと、試験に間に合わない。つまり、留年確定。何もしてもしなくても、留年確定。よし、わかった。オレ、留年は覚悟した。覚悟したよオレ。よし、留年した後の対処を考えよう。それが冷静な高校2年生の対応ってやつだ。まず、問題なのは、来年のクラスに馴染めるだろうかってことだ。「ふんどし先輩」などと、陰口を叩かれたら嫌だな。いっこ上なのにいじめられたりすのだろうか。
君は、この世の終わりの永遠ループ妄想モードに突入していた。そこへ入ってくる唯一無二の親友。「ういーっす」と唯一無二の親友は、君に普段と変わらぬ挨拶を投げかけるであろう。君は相変わらず、この世の終わりの真っ最中だ。今妄想しているのは、母さんにふんどしを届けて貰おうかどうしようかということで、とてもじゃないが、唯一無二の親友の挨拶を返す余裕はない。しかし、唯一無二の親友はそんな君の立ち尽くしなど、意にも介さず、カバンから当然のように、ふんどしを取り出す。君はそのふんどしを凝視する。唯一無二の親友もそこで気付く。君の尋常じゃないその眼差しとその汗に、君がふんどしを家においてきてしまったことを、唯一無二の親友は無言でそのことを悟る。そして、彼は差し出すであろう。君にふんどしを差し出すであろう。彼の苦労と努力と希望が染み込んだふんどしを。唯一無二の親友は何の衒いもなく差し出すであろう。唯一無二の親友だから。でも、君はそのふんどしを受け取ることが出来るだろうか。「お、悪いね」などと言えるだろうか。いや、出来ないはずだ。唯一無二の親友が、夜中の公園で大樹を相手にてっぽうをしていたのを君は見ている。唯一無二の親友の家に遊びに行ったとき、栃東のポスターが貼ってあったのを君は見ている。唯一無二の親友のことを少しでも考えることが出来たら、とてもじゃないが君はそのふんどしを借りることは出来ないはずなのだ。ふんどしは鉛筆や消しゴムと同等じゃない。ふんどしには唯一無二の思いが詰まっている。
ふんどしを忘れてしまった君は、もしかしたら本当に留年してしまうかもしれない。でもその代償で、他人の気持ちに少しでも気を配ることの出来るナイス男前にもなっているはずなのだ。



「ひとのふんどしで相撲をとる」って言葉どおりの人をよく見かける。社会人になってほんとよく見かける。わがもの顔で、ひとのふんどしで相撲をとった挙句、そいつが調子に乗っていたりすると、すくい投げで土俵外に投げ出してやりたくなる。ふんどしを貸してくれた人への感謝の気持ちや謙虚の気持ちが見えないと、再度投げ飛ばしたくなる。



でも、実際は「ひとのふんどし」を借りていることすら気付かない人が多いので、びっくりします。ってか、もはや、感動の域。もう、そういう人には、汗とかナニとかの染み込んだリアルふんどしを渡せばいいんだと思う。そして「いつもの相撲、見せてくださいよ」とか言ってやれば完璧だと思う。
君は君で、汗とかナニとかを染み込ませるために、一生懸命てっぽうをするから、エクササイズにももってこいだと思う。