キャベツのはじまり

「退屈しているということは死んでいるということと同義なんだ」
などと君は、まだ昼の1時、僕は大好きな味噌かつ定食を食べているというのに、言う。
僕にとっては、君が一番退屈で、そう、君のことを考えるときが僕は一番死に近い、と思いながら、僕はキャベツにソースをかける。
僕はずっと揺らいできた。100%生を感じる瞬間はあるものの、その感覚を持続させていられたことはない。
この瞬間だって、退屈だと思いながら、キャベツはおいしいし、幸せを感じている。生きてて良かったキャベツがうまい。と油断して顔をあげると君は、昼のまだ1時だってのに、生とか死とか考えていて、僕はうんざりするんだ。
「仕事に意義を見出せなくなったら、辞めたほうがいいね」
ほほう。言ってくれる。
僕は、仕事は思っているほど啓蒙してくれるものじゃない、と思っている。仕事は多分、学校とかと一緒で、学校に毎日意志を持って通っていたかと考えたら、むしろそんな日の方が、圧倒的に少なくて、ほとんど習慣。それもだいぶ、好ましくない習慣の方で、でも、やらないと何か落ち着かなくて、そんな苦痛すら無自覚に無かったことにすりかえていた毎日だったと思う。
でも、退屈と感じたことはなかった。
いつも不安だった。これが正解だと思う。
僕が高校生だったころは、『ここじゃないどこか』みたいなフレーズに踊らされて、そのフレーズの不実さもわかっていながら、でも、そのフレーズに変わる答えなんてないから、あのころの僕は、『ここじゃないどこか』の、『ここ』にいるわけでもなく、『どこか』を目指すわけでもなく、不安定な場所で揺らいでいたのだと思う。
それは確実に、不安だったと思う。
でも、僕は毎日よく寝ていた。明日は明日で、弛んだロープから足を滑らせてしまうかもしれないから、そうならないように、僕は慎重に体を休めておく必要があった。僕は予想もつかない明後日を願っていた。
「キャベツ、おかわりください」
君は『どこか』を目指して、まっすぐに進んでいくのだろう。キャベツをいっぱい食べてください。この国では、多分人は暮らしていける。バイトをすれば、生活が出来る。不安な暮らしは確実に生を意識できるだろう。
不安の中で、僕は仕事をしている。
まだ見ぬ『どこか』を考えている君の『ここ』に何があったのだろうか?
『わからない』ととりあえずの結論を出した僕の今に何があるのだろうか?
これらを退屈というのだろうか。
キャベツはソースに浸っている。