第2位

映画「オールドボーイ」と「家族愛」

社会人1年目は前のめりに転倒しそうな程のやる気でもって日々を過ごし、2年目の2004年は「男前計画」発動も手伝い、ゆとりの日々を過ごそうと試みた年でした。
映画を映画館で堪能する。
これも、ゆとりの日々計画の一環でした。12月1日の映画の日も、当然オレは映画を観に出かけたのです。
仕事帰り。銀座。まるで大人。まるで大人なオレはロビーで煙草をくゆらし、まるで、けだものの目付きであたりを見やるのでした。貴婦人の一人や二人、ものにしてもなんらおかしくない状況ですが、その日は水曜、そう、「レディースデイ」の日。有楽町スバル座は貴婦人でごったがえしておりました。というわけで、オレは、けだもの、つまり従順な犬そのものに、ロビーで列の一部と化しておりました。I wanna be your dog.
で、オールドボーイ鑑賞。そして、心揺さぶられる。ただオレが思うに、カンヌ映画祭クエンティン・タランティーノ監督が絶賛していたポイントとはおそらく違うところで、オレは震撼していた。
この映画は「復讐」がおそらくテーマだと思います。
「復讐」
確かにソソるテーマです。が、オレは、
「家族愛」
「復讐」に繋がるテーマ「家族愛」にぎゅっと抱きしめられたのでした。
「親とかってやっぱ大事にしなかきゃいけないと思うしぃー」
と、素面で言える女子高生が跋扈する現代。何がそうさせるのかという問題の解明は、ここでは関係無いし時間が無いので割愛します。
んで、オレですが、「親=大事」という図式が成り立たない人間です。ちと語弊があるな。成り立たなかったので、ここ何年かは「成立したらどうなるのだろう?」と家族を「家族」と鍵括弧でくくるぐらい、家族ってものを意識した生活を送る日々です。無意識下では絶大に信頼しているのでしょうが、表層レベルでは「頼らない」の決断です。
それが普通の20何年を過ごしてきました。そして、その状況はオレの心のバランスを保ち、なによりも平和でした。「頼らない」状況を保つこと、すなわち、平和でした。
そして、ここ何年か、家族を意識した日々を過ごし思うこと。それは、崩壊。いつか家族は崩壊する。「頼らない」は「頼る」人がいるからこそ、成立する言葉で、居なかったら、「頼れない」なのです。家族を意識すると、今までの心の平安は「頼る=頼らない」の図式の成立が見え、また、気付かなかった絆みたいなものが見えてきて、非常に恥ずかしい。今更「絆」うんぬんでもないと思うのですが、自分の無知さが恥ずかしい。そして「頼れない」日々の到来を想像する自分。多分来る。そう遠くない。そんなありがちな想像でオレは2004年、一番泣いてしまいました。それは、20年分の後悔も混じっていて。



オールドボーイ」はそんな「家族愛」の映画にみえました。愛をエネルギーに変えること。エネルギーが「復讐」というベクトルを纏い、主人公は空白を埋めているようにみえました。
そして、
主人公は激的なドラマが与えられた。
オレは家族を意識しない平和な日々。
その距離感に鳥肌が立ちました。



前出の女子高生の気持ちがなんとなくわかります。多分、あの発言は自分への奮起の言葉。いつか崩壊してしまう儚い家族だとは知りながら、それでも「絶対」に限りなく近い家族をエネルギーに変える利用法に、悪い気はしません。
父性とか母性とか、そんなのではなく、
「家族という理由がある」
それだけで家族の存在意義があると思った、2004年第2位です。