命拾いのはじまり

その日、私はミトルーヤのレストランで御飯を食べていた。ミトルーヤの街の主食は、ナンをもっと柔らかくしたような餅みたいな食べ物で、人々はそこに、肉や魚や野菜を巻いて食べます。初めて食べる文化に素直に感動はするものの、やっぱり飽きるのです。飽きないわけがないのです。そのナンだか餅だかは口の中に残るし、適度な厚みがかえって食べにくい。要は疲れるのです。この街の御飯は。ただ、それでも私がレストランに通うのは、この理由に尽きます。
酒が美味い。
その酒は、ブルーから透明へのグラデーションで、グラスの底には宝石の様な小さいレモンがたくさん敷き詰められています。飲めば、日本酒の様な口当たりと、お腹がポカポカする多幸感が延々と続き、私はその酒で、全てを受け入れた気分を得ることが出来たのです。
そう。
私は、あの納得いかないこの街のイベントクリア条件『TV局に侵入し、プロデューサーを倒す』もゆるせていました。テラスで空を眺めていました。マグロがもの凄いスピードで夕暮れに向かっていっています。酔い過ぎた。頭がおかしくなったかしらん。と思いましたが、そうか、この街では、マグロは空を飛ぶのでした。
空を見上げたまま、私は次の一口を楽しもうとしました。しかし、グラスの手応えがない。ゆっくりと顔を下ろすと、私のとなりに、少年が腰掛け私の酒を飲んでいました。
「何、空見て、馬鹿面さらしてんだよ」
面識の無い人にいきなり言われた言葉が、これです。相手がいくら少年であろうが、とても無礼であるので、私がマフィアなら、ガンで頭を打ち抜いていたのでしょうが、私はマフィアではないので、少年は命拾いをしたのでした。
「旅に酔ってますって感じ、丸出しだな」
私が軍曹であれば、少年にブーツを舐めさせ、その背中をムチで10回ほど叩くのであるが、結果、彼は2度命拾いをしている。
「お前はクリアできねーよ」
私は席を立った。
私は早くこの少年のことを忘れたいと思ったのです。彼と口論を交えるのもいいでしょう。多分論破出来る。泣かすことだって出来るでしょう。しかし、ヒートアップした後のセンチメンタルは、この酒の多幸感は取り戻すまでの、深い溝になるに決まっている。
少年は無礼だから少年なのです。少年だってそんな自分を自覚し、そしてそんな自分に甘んじている。疲労してまで付き合って、彼の無礼を指摘する理由はない。
ふらふらとした足取りで私は店を出た。



今考えると、全くもって、油断していたのです。



私が肩にかけようとしたバックは、その瞬間、
あっ!




奪われてしまったのです。
道の端から、走ってきた男に。
一瞬の出来事。
ああ、ニュースで聞いた出来事が、ほんとに自分に降りかかるんだ。
それ以外の思考に、頭がまわらない。
そして、足に力が入らない。
ああ、どうしよう。
ああ、どうしよう!!!
お金とかが入っているのに!
とりあえず、私は駆け出しました。
こんな時、駆け出しているのを、何かの映像で見ました。
どこかで見たような映像は、私にフィクションと現実との差異を認識する愚鈍な時間と、未体験なのにも関わらず経験したかのような、一つの正解的行動をもたらしました。
しかし、男の方が断然足が速く、どんどん差が広がっていきます。
助けを求める声も、かすかな音しか出せないものですね、そういう時は。
私は泣きそうでした。
いや、泣いてました。
己のふがいなさを泣いていました。
ちょっと考えれば、一人旅で酔いどれになるなんて、とても危ないことなのです。
先のことも考えずにとった行動の結果が自分に返ってきて、私はそれに対する心の準備が出来てなかったということだけなのです。
嗚呼、しかし、何で私がこんな目にあわねばならないのか!



私は走りながら、真っ白な頭で、もはや妄想に逃避していました。
やり直せないだろうか?
もしくは、あの男が転ばないだろうか。誰かあの男を捕まえてくれないだろうか。いや、あの男が車に轢かれてしまえばいいんだ。
そうだ。
そうなってしまえ!
私は泣いていました。
と、半ば狂乱気味の私の脇を猛スピードで通りすぎていく黒い物体。
とても大きい黒い物体。
少しして、私はそれが何なのかわかりました。



マグロ。
マグロが地面すれすれに泳ぎ、あの男に向かっていったのでした。そして、私はそれを確認して、地面によろよろと倒れこんだのでした。うつ伏せの私は顔を上げ、あの男にマグロが追突する様を見て、目を閉じたのでした。





「思いやりだけの社会なんて、あるわけないだろ」
仰向けになって目を開けた私に、西日を背にした少年はバックを手渡しました。そして、少年の周りを、あのマグロは楽しげにまわっていました。
「ばかじゃねーの」



少年はザムザといいました。
そして、実は私と2歳しか年齢が変わらない無礼なマグロ使いに、私は命を助けてもらったのでした。