「or die」のはじまり

休日はアクティブ。



そう思っていた。
限られた時間を、外に出て、非日常から何かを学ぶ。
社会に教えを乞うスタイルは
「休日はアクティブ」
に集約されていると思っていた。



オレが大学の頃には、それはもう、時間という時間を浪費することに美学を見出していた。土曜の夜などは朝まで、バイトの仲間と、
ユニクロのTシャツデザイン案」
「あったらいいな、こんなテーマパーク」
などの素敵サミットを幾度となく繰り広げ、帰宅。朝6時15分からTV東京で始まる「将棋対局 早差し将棋選手権」を見ながら、うとうとと就寝。桂馬(将棋の駒で唯一説明しにくい動きをする)が将棋盤を縦横無尽に動き回る悪夢にうなされながら、昼過ぎに起き、家で夜まで突っ伏している。というのが、オレの休日スタイルであった。のんべんだらりと快楽に溺れる。その時間、色んなことを考えるのであるが、美学的な浸りも含めて、時間の無駄だった、のだとも思う。



しかし、社会人になると、休日こそ休めない。時間を浪費するおぼろげな美学より、手応えが欲しい。勿体無い気がするのだ。日頃彼らが口癖の様にいう「忙しい。時間が無い」とはどうやら本当で、例に漏れず、オレも限られた時間をやりくりする羽目に陥っているのである。突っ伏してみようかしらん、と思おうものなら、10秒。10秒で満足する意識をオレは自己啓発、そして、まだ見ぬ何かを求めて、あくせくと外へ飛び出していくのだ。



まあ、その何かというのは「男前」のことなのである。しかし、先日の六本木の件で、正直、疲れてしまった。転んでしまいそうな前のめりの好奇心と向上心から見えるものは、
「結局、転ぶのだ」
という事実。



「今日、麻雀やります」
とオレ、いきなり素敵D面子3人にメールした昨夜22時。確定しているのは、オレ一人。しかし、D面子は集まる。Yさんに至っては、次の日朝一から仕事があるのに駆けつけてくれた。半泣きだった。オレは彼らを最高に男前だと思って、震えた。
彼らは麻雀そのものに「男前」を見い出しているわけではない。
日曜22時からはじまる麻雀。
彼らはそこに「男前」を見ている。



「書を捨てよ、街に出よ」 
しかし、思想に裏打ちされた行為でないと、街に出る意味が無い。



帰宅したのは朝4時、街に出る意味を見出せてないオレは、そこから「いただきストリート3」を昼11時までCPU3人を相手に延々プレイしていた。そして、オレは16時起きて、大量にある未読の本達から、ジョージ秋山先生の「武士道というは死ぬことと見つけたり」を読む。
武士道指南書である「葉隠」をジョージ秋山先生が味のある漫画とともにわかりやすく説明されている一冊。
標題の意は

武士道を究めるには、朝夕くりかえし死を覚悟することが肝要である……
常に死を覚悟している時、一日一生と思えば一日は我がものとなり、心が安らぎますように
武士道とは、死を覚悟していれば武士道は自分のものとなり、
武士が武士であることができる。
自分が自分であることができる。

武士道の極意は、現代の男前においても通用するのではないか、と、オレ思った。「男前は死ぬことと見つけたり」。今風にいうなら、



Plan-12「男前 or die」



今日一日家に居ましたが、気持ちは、「or die」。
いたスト or die。
味噌汁 or die。
ラックス or die。
就寝 or die。
大学の頃の過ごし方とは、段違いなのですよ。



満を持したオレは、「or die」の思想でもって、再び六本木に向かうのだろう。



六本木 or die。
つまり、
六本木心中。



違う。
こんなことが言いたいんじゃない。