構造のはじまり

物事が上手くいっているときは、得てして、時間が通り過ぎるのが早く、わたくしは気付いたら、今23時だよ、に至るわけであって、そうか、面白いことはそのまま放っておけば、それでよいわけで、補完する必要なんてなく、むしろ「後押し」なんて考えた日には、うまくないのであって、純度100%の面白さ、そんな合理的な美の様は、そこに「もっと面白くしよう」などといういやらしい意志が介入することによって、醜悪に加工された様相になってしまうのだろう、と怖れておるのです。つまり、このようなweb日記というものは、日常のつまらなさを、引き金にして、そのつまらなさ「具合」(ベクトルでいうところの「太さ」)を、面白い方向に向けて、発散する作業なのだな、と思い、しかし、今日のわたくしは、非常に普通の幸せであり、web日記に書いてもなんら面白くない記録でしかないので、いや、記録でも、記録するほどのものでもないので、ではどうしたらいいと、あぐねているわたくしなのであります。結局のところ、更新しなければいいのではありますが、こういったものは続けた先に何か感じることがあるのでは、と思っておりまして、続けなくてはならないのですが、しかし、書くことがない、と堂々めぐりをしておりまして、では、せめて、忠実に今日を書写してみようかしらん、と思う次第にございますが、「朝、起きる」などからはじめてもよいものなのだろうか?こんな所作は当然ではないのか?では、「朝御飯を食べる」は?と考えていたら、結局のところ、特筆すべき出来事はなく、今日は誰にも出来えた普通の日で、これから何か起きない限り、ドラマでいうなら、省略されるべき時間なのであり、では、内面、精神面において、何か記するものでもないかしらん、と矛先を変えたところで、普通に、Happyだ、ということは、思考停止に陥りやすいものらしく、今日一日の精神面を追ってみると、あー、とか、うー、とか、美味い、とか、おいしい、とか、楽しい、とか、天気がいい、などと文章にならぬ思考で、つまり、わたくしは、今、この時点が一番物事を考えていることに気付く。そして、この瞬間考えているということは、満たされていないとイコールなので、何が満たされてないのかというと、日記が書けないということで、しかしながら驚くことに、今日の日記は「日記が書けない」ことから「日記が書けている」というわけのわからない構造に陥っているのでありまして、思うにわたくし、やれば出来る、という言葉は、このやうなことを言ふのではないかと実感し、またひとつわたくしの思想の螺旋は新たな曲がり角を迎えて、一つ上の層に向かったのだと認識させていただきまして、今日は全てにおいて、はっぴいえんど