言論規制のはじまり

罰が無ければ、逃げるたのしみもない。



今日は、久しぶりに同期の飲み会がありました。
Oさんも現在の職場から駆けつけ、久しぶりに同期5人の会になりました。
オレは、今日、過度のストレスによる、悟りの笑みを浮かべた「菩薩」と化してしたので、
赦してくれる同期の存在で、オレは救われ、
また明日から生きていける予感がありました。



そして、ついでに、
生きていけるのだろうか?という悪寒もありました。



Oさんがうっかり、オレがweb日記をつけていることを話してしまいました。
オレもうっかり、オレがweb日記をつけていることを話してしまいました。
タイトルまで言ってしまいました。



「オレの社会的地位」VS「飲みの席の盛り上がり」
後者圧勝。
オレは仕事もネタにしていたりする日もあるのに、言ってしまったのです。
同期の盛り上がりを大切にしたかったのです。



見つかるのは時間の問題。
言論規制のはじまりです。



同期のみんながこの『焦燥感』を会社で読まないことを祈ります。
冒頭の言葉は安部公房先生の言葉ですが、
『焦燥感』ではオレそのものが、罪で、罰なので。
逃げたところで罰なのです。
罰を他者に認識されたら、お終いな気がします。



最悪を想定します。
上司が『焦燥感』の存在を知り、プリントアウトして、さらし者にする可能性がある。
上司が営業のネタとして、『焦燥感』を使う可能性がある。
最近、上司の文体が妙に『焦燥感』調だ。
これ以上、菩薩るのは嫌なのです。
もし知れたら、文化レビュー(オシャレ調)ばかり書くよ、オレは。
そして、過去日記も全消去。



同期の良心に、オレの菩薩を預けます。
しかし、意外と、『罰を認識される』という罰が発生し、
責任という負荷の中、書く行為も楽しそうに思えたりもしたりする。



でも、この思考はたぶん、飲みすぎた「一刻者」のせい。
酩酊の中、この理由だけは確か。