諦めのはじまり

わかってほしいのなら、わかってほしいと叫んだ方がいい。
それがアメリカってもんだ。
わかってほしいなら、わかっていてほしいと願う。
それが日本のこころってもんだ。
オレは、そんなアメリカ的思想も日本的思想も大好きで、現実の生活にもよくフィードバックします。



叫ぶなら大きな声がいい。
願いはささやかがいい。
そう思うし、そうしたい。TPOに合わせて。



唐突ですけど、コミュニケーションは難しいと思う。
これは現代における永遠のテーマ的な、とってもキャッチ−というか、まあ、いまさらなのですが、アメリカ&日本なオレは、自分のキャラクターが未だに定まらなくて、困っているのです。
キャラが確立していれば、コミュニケーションの手法に迷わなくてもいい。
確立していれば、悩むのはその関係が上手くいくかどうかということだけだ。
アメリカ的なサバサバでいきますよ。
日本的な3歩下がってしのびますよ。
世界が相対的なら、何をしたって上手くいく環境と上手くいかない環境が出来る。だったら、自分のキャラをある程度確立して、それを認めてもらった方が、生きやすい。勿論、それをわかっている人はいっぱい居て、それを実践し、自らを記号化する。
でも、オレはそれをわかって、もっと上手い方法はないのかと挑みたくなる。



相対的なら、うまく合わせて、さらっと渡り歩いて、オレの小さな世界といつだって手を繋いでいけたら、とても幸せな気がするのだ。



それが理想。
手段と目的が上手く連携する予感がある。
でも、オレの予感は薄っぺらかったです。
目的を深く考えると、目的というものはいつだってとても湿っぽくってどろっとしていて、手をはらったところで、圧倒的な怨念で覆い被さってくる。目的を達成しなくてならないという強迫観念の幻想が、手段をおぼろげにする。




結局、手段の選択がその人のキャラクターだと思う。向かう目的は一緒だったとしても。
小さな世界と仲良くしたい。
それ、目的。
しかし、『さらっと』
これも目的。手段ではなくて。



目的が鈍ったら、何かを諦めなければならない。
それを知った。



結局、何が言いたかったのか?
恋愛は難しいです。ってことです。
仲良くしたい。
でも、さらっとしていたい。



そっか。
書いているとなんだかわかってきたします。
さらっと生きたいが為にフレキシブルな手段をとるよ、と思うこれがオレのキャラクターなのだ。変化する自分はアメーバという記号です。



しかし。
恋愛は確固たる意志が必要みたいなのです。
アメーバじゃダメです。
わかりやすい意志の表示が相手に安心感を与えるようです。
幸せな瞬間瞬間を持続させるために、自己を変化させることが当たり前の自分は、ベクトルが根本的に違うような気がします。好きなら、好きでいられるためにするオレの作業が、恋愛の本質とかみ合ってない気がします。
まあ、とっても、わかりにくいらしいのですよ、オレは。
相手にとっても。
オレ自身でさえも。
何処に向かっているのか?



でもさ、
自分の為の恋愛でしょ?
「相手の幸せな顔が見れればいい」というアレだって、「見てる」時点で自分の為でしょ?
あー、わかりません。
わかりませんよ!
コロコロ変わってしまうオレの行き先は、多分君と同じ「幸せ」なんですよ。瞬間的が持続した先に幸せな過去があると思わないかい? 幸せは過去のものだよ。それを君と創り上げて、眺めることがいいと思わないかい? それを糧に、何の確約もない先々に向かっていけると思わないかい? 瞬間的な今の理解より、楽しげな過去を創造することを優先するのは間違っているかい?
自分の為なのに、自分を否定しなきゃならない選択を強いられるなんて、とっても辛いのですよ、オレは。