青のはじまり

たとえば、太宰は私に向って、文学界の同人についなっちゃったが、あれ、どうしたら、いいかね、と云うから、いいじゃないか、そんなこと、ほッたらかしておくがいいさ。アア、そうだ、そうだ、とよろこぶ。
そのあとで、人に向って、坂口安吾にこうわざとショゲて見せたら、案の定、大先輩ぶって、ポンと胸をたたかんばかりに、いいじゃないか、ほッたらかしとけ、だってさ、などと面白おかしく言いかねない男なのである。
多くの旧友は、太宰のこの式の手に、太宰をイヤがって離れたりしたが、むろんこの手で友人たちは傷つけられたに相違ないが、実際は、太宰自身が、わが手によって、内々さらに傷つき、赤面逆上した筈である。
(中略)
太宰の内々の赤面逆上、自卑、その苦痛は、ひどかった筈だ。その点、彼は信頼に足る誠実漢であり、健全な、人間であったのだ。

「不良少年とキリスト」/坂口安吾

酒を飲んで帰る日々がしばらく続いていた。
深夜25時。私は道の淵をなぞるような千鳥足で帰路につく。
すこし気持ち悪くなって、足をとめる。ふうっと息を整え、天をあおぐ。夜空。愉快な気分が奏でる鼻歌のその隙間。朦朧とした頭の中。こぼれ、したたり、そして次第に、巡りはじめる青の言葉。地に足が全く着いていない青すぎる戯言を発していたのは、飲み会での私。誰も居ない路上で私、居ても立っても恥ずかしさが言葉としてもれはじめ、とまらない。


パンツを脱ぐという生活というのは、思っていたよりも瀬戸際である。たしかに予想していたとおり、意識を刻むことは前よりも多くなったし、振り返ってみる日々は、以前よりも明らかに思い起こせる出来事に満ちている。
しかし、瀬戸際である。
躁と鬱の瀬戸際。
別に言わなくてもいいことまで、サービスとして言ってしまう。


「言わないでやるのはずるい」
とある人は言った。
やらなくても許されるから。とその人はその理由を語る。
たしかにそのとおり。
だけど、その逆の
「言っておいてやれない」ってのは、
ずるくはないけど、とてもみじめで、
いろんな意味でかわいそうな気がした。


私はきっとそんなみじめさの中に居るのだろう。
不安という大海で浮き沈みする不確かな自信。
私はそんなか弱い自信にしがみついている。
高波がきたらきっと飲み込まれてしまうのではないか。


理想と現実のギャップに悩み今、1ヶ月ほど社会生活を休業している人がいる。
自分に厳しく律する人だっただけに、許せないことは多かったのではないだろうか。
その人のことを考えると、明日はわが身かもしれないなあ、なんてふと思ったりする。
私は私を厳しく律したりはしないが、脱パン世界の住人となった今、茂木健一郎の言う「意識の変性状態」へ積極的に臨むようになった今、その姿勢が、精神を磨耗している日々であるということはなんとなく感じている。
瀬戸際は、一瞬だから瀬戸際なのです。
瀬戸際な日々は、狂気に近い。


「つまり、青すぎるんだよ君は」
とその夜、ある人は言った。
まだはじまったばかりなのに、こんなにもけわしい青のはじまり。