一言のはじまり

何故自分がそこに立っているのか。
彼はいよいよわからなくなっていた。
周りから遠慮なく注がれる好奇の目が、彼を追い詰め、彼の視線は形而上を見つめていた。
そこは戦場だった。彼はまるでライオンににらまれたインパラだった。彼はすっかり丸腰だった。
皆が持つグラスに出来ていたはずのビールの泡は、消えてなくなっていた。
歪んだ時空。彼は場の支配者だった。
皆が固唾を飲んで、彼の一挙一動を見守っている。
彼がはじめて覚える種の恐怖。膝がいうことを聞かなかった。がくがくと震え、崩れ落ちるのはもはや時間の問題だった。瞳から消えた光、顔は青白く、それでいて吐く息は、信じられないほど熱かった。
寄せられる好奇の視線は、冷めることをしらない。
彼が立ってから10分。
何故そこに立っているのか。その疑問だけが宙に浮かんでいた。



ありとあらゆる盛り場で、以上のような事態は発生している。
「じゃあなんかひとこと」
誰かが言うのだ。
「んじゃさ、飲み会に先立って、なんかひとこと、言ってよ、ねえ」
そして、たまたま隣に居た彼。
入社してまだ半年の彼に降りかかる災難。
彼も何の考えもなしに立ち上がってしまう。
『飲み会ひとこと問題』の発生。
まさにその瞬間である。
彼や私を苦しめる『飲み会ひとこと問題』。
私はかかる事態の解決に乗り出すことに決めた。


最近、年上の人と飲む機会が増え、一言力(ひとことりょく)が求められる場面に出くわす。
ビール瓶がテーブルに運ばれる。
いやここは私が。などと言いつつ、グラスにビールを注ぐ注がれる。
皆のグラスにビールが注がれたのを確認して、
「では、ひとこと」
きました。
『飲み会ひとこと問題』である。
私は立ち上がり、考える。
なんか面白いことを。
含蓄があり、ウイットに富んだ、小粋な一言を。
そう意気込めば意気込むほど、練れば練るほど、うまくいかない。


うなだれる私の隣で、上司は小気味よい中締めの言葉を繰り出す。
よくよく聞いてみると、別にたいしたことは言っていない。
ただ音の調子がよいだけだったりする。


でもそうなると、一言の存在意義っていったいなんだと私は思う。
気がつくと私の前に手のつけられた刺身がまわってきた。


ああ、そうか。
別に、一言は面白くなくていいんだ。
こんもりと残された大根のツマを突付きながら、私は少し気が楽になった。