住みたい街のはじまり

住みたい街は何処ですか?



この問いの答えは、みんなそれぞれに、用意できていると思う。
オレが学生の頃は、ダントツで西東京でした。西東京の、中野とか、高円寺とか、阿佐ヶ谷とか。ベルボトムの裾をひぎずっちゃうよ的退廃のにおひが、学生時代のオレにドンピシャでした。ガンジャとか言うよ。バタイユ読むよ。窓のから見える風景、タバコ吸うよ。そんな学生生活に憧れた。
今日、仕事で高円寺に行ってきました。久しぶり高円寺。高架下を歩く。まだ昼前だったので、多くの店はシャッターを降ろしていて、商店街は静寂に包まれていた。学生の頃のオレは、そんな静寂に、多分カタルシスを感じていた。風景を見つめて酔っていた。街と自分は乖離していた。
今日思った。ここは多分、住みにくい。
オレの中で情景と化した街では、オレは生活は出来ません。生活はもっと現実的で合理的なシステムの上で成り立っている。風景の中の自分は所詮風景に過ぎなく、風景らしからぬ、洗濯であったり、買い物であったり、(映画などのフィクションの中では、それすら風景になっているのだが)面倒臭さが、生活にはつきまとう。その面倒臭さへの配慮が決定的に欠けている印象をうけた。面倒臭さはおそらく、風景を風景として保持するベクトルを軽く凌駕するであろう。西東京は生活に美学をストイックなまでに持ち込める人が住むべき場所なのだろうと、今日思った。
街は個々の生活の上に成り立っているものです。本だけ読んでいれば、酒だけ飲んでいれば、服だけ着ていればいいってものではありません。野菜を買って、トイレットペーパーを買って、お米を買う。そして、その上で、本や酒や服を買うのがいい。合理的でスマートな生活の上に成り立つ文化が一番美しいのだと、オレは思う。魅力的な思想は健全な生活があってこそ、説得力を持つものだと思う。
西東京に住みたいと燻っていたオレの理想というか怨念は、今日、無くなりました。他の人とってはわからないが、多分、オレにはあそこは住みにくい。住むことになったら、風景の維持に生活が縛られてしまうのだろう。
引っ越すところは、安いスーパーが近くにある街がいい。車を使えばホームセンターまで10分がいい。文化は電車で手に入る。それを面倒臭いと感じるのなら、その文化はきっとオレには必要の無い文化なのだろう。