沈黙のはじまり

言葉は時に無力だ、と感じる時がある。
Yちゃんのウサギが死んだ。
Yちゃんのウサギは、オレのウサイメージを一新したニュータイプで、
意外にずっしり。とか、
ピョンピョン跳ねない。とか、
ムームー(「ん」に濁点が入った感じ)鳴く。とか、
自分のウ○コを食べる。とか、
ウサギ幻想をすっかりと覆してくれた挙句に、朝寝ていると、オレの顔に尻を向けてきたりして、かなり気の置けない仲であった。
それだけにショックであった。



Yちゃんは電話の向こうで泣いていた。
オレはただそれを聞いていることしか出来なかった。
うんうん。とそれだけで、気の利いたこと一つ言えなかった。
いや、言わなかった。
気の利いたことがなんだか軽薄な気がしたのだ。言葉を選んで決めかねているそんなオレがとても浅はかな気がしたのだ。


しばらくしてオレはウサギの馬鹿さに関しての思い出話を始めた。
尻を向けた朝、手で追い払ったら、小屋にムームーしながら帰っていったこと。
Yちゃんの部屋のダンボールを齧っては捨て齧っては捨てで、何が何だかだったこと。
部屋の隅っこでウ○コをこっそりしていたのだが、その量がモリモリで、全然こっそりではなかったこと。



Yちゃんは笑ったり泣いたりしながら、オレの話に応えてくれた。
そして、オレは
「いっぱい泣いたらいいと思う」
と言った。
「わかってる」
とYちゃん。
その言葉は意味を超えない、ただの音でしかなかった。



言葉が意味を有するものであるのなら、沈黙にも意志がある。
Yちゃんの涙に前向きな沈黙で応えてあげることが、オレがやってあげたかったことなのだろうと、その時気づいた。
言葉をかけないやさしさがある。
沈黙のはじまりはきっとつらいことじゃない。
だってそれは、精一杯の思いやりだと思うから。